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JEWEL

JEWEL

愚者の花嫁 第1話

海斗が両性具有設定です、苦手な方はご注意ください。

「カイト様、おはようございます。」
「おはようございます。」
この日、ロレンシア公爵家は、特別な朝を迎えていた。
「カイト、何ですかその髪は!アンナに直して貰いなさい!」
「え~!」
海斗の義母・マリーは、海斗にそう言うと彼女の自室から出て行った。
(何だよ、たかが見合いの為にそんなに張り切る事じゃないだろうに。)
この日、ロレンシア公爵家の令嬢・アナスタシアと、この国の皇太子であるジェフリーと見合いをする事になっている。
アナスタシアは、マリーに似た美貌の持ち主で、淑女のお手本のような、聡明で控え目な女性だった。
だがその義理の妹である海斗はアナスタシアとは正反対で、花嫁学校は入学したその日の夜に脱走し、マリーがそのショックで寝込んでしまった事があった。
得意なのは乗馬と剣術、裁縫と刺繍だけ―そんな海斗を、世間は“ロレンシア家の恥さらし”と呼んでいた。
だがそんな世間の評判などクソくらえと思っている海斗は、姉の大事な見合いの日など知ったこっちゃなかった。
しかし、この見合いを必ず成功させたいマリーは、海斗をアナスタシアの付き添いとして指名したのだ。
「え~!」
「いい、決してアナスタシアの邪魔をしては駄目よ!」
「わかったよ!」
(あ~、面倒臭い。)
アンナに髪をきつく結ばれ、海斗は余りの痛さに悲鳴を上げた。
「さぁ、次はコルセットを締めますからね。」
マリー以上にこの見合いの成功を願っているアンナはそう言うと、海斗を寝台の傍へと移動させ、彼女が着ているコルセットの紐をきつく締めた。
「痛いって!」
「我慢なさい!」
コルセットをきつく締められ、海斗は時折苦しそうな息を吐きながら姉の見合いに臨んだ。
「皇太子様が、お見えになられました。」
「もうすぐ、ロレンシア邸に着きますよ。」
「あぁ・・」
鬱陶し気に前髪を搔き上げながら、アゼリア王国皇太子・ジェフリー=ロックフォードは馬車の窓から外を見た。
「少しは興味がある振りをしたらどうだ?」
「だったら、あんたが見合いをすればいい。アナスタシア嬢とあんただったら気が合いそうだしな。」
「ふん・・」
見合いの付き添いでジェフリーの向かい側に座っていたのは、彼の異母弟であるビセンテ王子と、彼の小姓であるレオだった。
独身主義者であるジェフリーが見合いをする事になったのは、彼らの祖母にあたる皇太后・エリザベスのあるひと言からだった。
「妾ももう長くない。せめて死ぬ前に曾孫を抱きたいものじゃ。」
皇太后の言葉に真っ先に反応したのは、彼女の重臣達だった。
頑健で結婚適齢期の二人の王子が居るのだから、相手さえ見繕えば、結婚などすぐに出来るだろうと、彼らはそう単純に思っていた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
無神論者で男色家のジェフリーは、皇太子という立場でありながらも結婚に全く興味を持っていなかったし、ビセンテ王子は恋愛に対して淡白過ぎだった。
そんな現実を突きつけられたエリザベスの重臣達は慌てて家柄と血筋の良い娘―即ちロレンシア公爵令嬢・アナスタシアを見つけ、ジェフリーと彼女の見合いを急遽行う事になったのであった。
「アナスタシア嬢には、妹君が一人居るそうだ。」
「どんな方なのですか?」
「噂によると、入学した花嫁学校にその日の夜に脱走し、社交界では、“ロレンシア家の恥さらし”と呼ばれている程、風変わりな娘だそうだ。その上、赤毛故に気性が荒いらしい。」
「へぇ・・」
ジェフリーの蒼い瞳が煌めいたのを見たビセンテは、すかさず彼に釘を刺した。
「あなたが今からお会いする方は、アナスタシア様であって、彼女の妹君ではないのですよ。」
「わかったよ・・」
ジェフリー達を乗せた馬車がロレンシア邸の前に停まると、使用人達が総出で彼らを出迎えた。
「皇太子様、こちらです。」
「皇太子様、お目にかかれて光栄です。」
客間に入って来たジェフリー達に向かって、アナスタシアは優雅にカテーシーをした。
姉に倣ってカテーシーをしようとした海斗だったが、コルセットがきつくて出来なかった。
「カイト、ちゃんとしなさい!」
「コルセットがきつくて出来ないのよ、お姉様。」
「皇太子様、妹の無礼をお許し下さい。」
「別に構わないさ。」
見合いは、滞りなく終わった。
「あ~、疲れた。」
「カイト、あなたはもっとお淑やかに出来ないの!?」
「あら、俺は見合いの間に一言も喋りませんでしたけど?」
「もういいわ!」
アナスタシアはそう叫ぶと、浴室から出て行った。
昔から、彼女と仲が良くなかった海斗は、この見合いが成功し、彼女が未来の皇后となって欲しいと思った。
(俺は、こんな身体だし・・)
浴槽の中で身体を洗っていた海斗は、己の身体を見て溜息を吐いた。
海斗は、男女両方の性を持っている。
初潮を迎えて以来、豊満になってコルセットを締める度にきつく感じるようになった乳房と、それと反比例して小ぶりになった男の象徴。
男でも、女でもない自分を、愛してくれる人間なんていない。
海斗はそう思い込んでいた。
しかし―
「え、それ本当なの、お母様!?」
「えぇ。今夜王宮で開かれる舞踏会に招待されたわ。カイト、くれぐれも皇太子様に失礼しないようにね。」
「わかったよ、お母様。」
同じ頃、皇太子の執務室でジェフリーが苦手な書類仕事を終えて欠伸を噛み殺していると、執務室の扉がノックなしに勢いよく開かれた。
「皇太子様、一体どういうつもりなのですか!?」
「何をそんなに怒っている?俺はちゃんと結婚すると言っただろうが。」
「相手がアナスタシア様なら問題ありません!何故、妹君のカイト様なのです!?」
「俺は慎ましい淑女よりも、じゃじゃ馬で一筋縄ではいかない跳ねっ返り娘の方が、俺は好きなんだ。」
「今からでも考え直して下さい。あの娘にはこの国の皇后は務まりません!」
「そんなの、やってみないとわからないだろ?」
ジェフリーはそう言うと、羽根ペンを回した。
「全く、あなたという方は・・」
ビセンテは、溜息を吐いた。
腹違いの兄であるジェフリーの性格を、ビセンテは彼が子供の頃から熟知していた。
ジェフリーは、自分でこうと決めたら頑として動かない性格だった。
嫌なものは嫌だ、型に嵌められたくない。
王家の為、王国の為にと常に己を律し、国に尽くして来たビセンテとは正反対だ。
「いいでしょう。あなたがそのつもりならば、わたしにも考えがあります。」
ジェフリーはビセンテの言葉に答えない。
これ以上話す事は無い―ビセンテはマントの裾を翻すと、ジェフリーの部屋から出て行った。
「ビセンテ様。」
「レオ、舞踏会の準備を。」
「シー、マエストロ。」
「ここは、船上ではないのだぞ。」
「すいません、つい癖で・・」
レオはそう言って頬を赤く染めた。
「全く、皇太子様は一体何をお考えなのか・・あの赤毛の跳ねっ返り娘を王家に迎えるなど・・」
「僕達は何もできませんよ。問題は、あの方が彼女を気に入るか、ですよ。あの方は、気難しいから・・」
「お祖母様は―皇太后様は気難しい方だが、どのような身分でも、受け入れて下さる方だ。」
「あぁ、確かにそうでしたね。覚えていますか、僕がこの王宮に来た日の事を。」
「覚えているとも。」
ビセンテは、ふとレオが王宮へやって来た日の事を思いだしていた。
レオは、田舎騎士の家で生まれ、海軍でめざましい活躍をしているビセンテの事を聞き、レイノサから遥々王都へとその身ひとつでやって来たのだった。
「お願い致します、僕をあなたの小姓にして下さい!」
全身垢と泥に塗れ、凄まじい悪臭を漂わせたレオは、ビセンテの前に跪いた。
ビセンテは、レオの美しい蒼い瞳に宿る情熱に気づき、彼を小姓として傍に置いておく事に決めた。
垢と泥で汚れた身体を洗うと、美しい糖蜜色の髪と、雪のような白い肌があらわれた。
レオは、ビセンテの小姓となってから、只管勉学や剣技に励んだ。
ビセンテは、そんなレオを実の弟のように可愛がった。
仲睦まじい二人の様子を見た、彼らが恋人同士なのではないかと、事実無根の噂をばら撒いていた周囲の人間達は、皇太后の鶴の一声で一蹴された。
「仲睦まじい事は良き事じゃ。」
気難しく、情け容赦ない性格で知られるエリザベス皇太后だったが、気を許した相手となれば身分関係なく受け入れてくれる懐の深い一面がある。
「これから、忙しくなりますね。」
「あぁ。」
ビセンテとレオがそんな事を話しているのと同じ頃、ロレンシア公爵家ではひと騒動起きていた。
「何故、あなたなの!わたくしではなく、どうしてあなたが皇太子様の御心を掴むのよ!」
生まれてから物心がつき、社交界デビューを果たして以来、アナスタシアは未来の皇后となる事を目標に生きて来た。
それなのに、ただ付き添いとして同席していただけの海斗が、ジェフリーの心を掴んだのだ。
その日から、アナスタシアと海斗の関係に深い亀裂が入った。
「カイト様、入りますよ。」
「俺、姉様のお見合いに付き添わなきゃ良かったかな。」
「過ぎた事はどうにもなりませんわ。これからの事を考えませんと。」
「そうだね・・」
その日の夜、王宮で皇太后主催の舞踏会が開かれた。
―あ、あの赤毛・・
―あの恥さらしが、どうしてこんな所に?
氷のような視線が、海斗の全身に突き刺さった。
海斗の隣には、アナスタシアが憤怒の表情を浮かべて立っていた。
「皇太子様のお成り~!」
美しいブロンドの髪をなびかせながら広間に入って来たジェフリーの姿を貴婦人達から一斉に黄色い悲鳴を上げた。
そのジェフリーの後ろに控えていたのが、エリザベス皇太后に寄り添うように歩いているビセンテとレオだった。
ジェフリーは青地に金糸の刺繍を施され、レースをふんだんに使った夜会服姿だったが、対してビセンテは襞襟にレースがついた、黒の夜会服姿だった。
―ジェフリー様の婚約者が、今夜発表されるのですって。
―皇太子様の御心を掴んだのは、どんな方なのかしら?
―それは、決まっているわよね・・
海斗は周囲の視線に耐えかねて、その場から立ち去ろうとしたが、アナスタシアがそれを許さなかった。
「何処へ行くの?」
「姉様・・」
「あなただけ逃げ出そうなんて、許さないわよ。」
そう言った彼女のブルーの瞳には、仄暗い光が宿っていた。
「みんな、今夜は来てくれてありがとう!」
ジェフリーがそう言って貴婦人達に手を振ると、彼女達は黄色い悲鳴を上げた。
中には、気絶する者も居た。
「今日はみんなに報告したい事がある。俺はこの度、カイト=ロレンシア嬢と婚約する事になった。」
―え・・
―アナスタシア様ではなくて?
海斗は、そっと大広間から抜け出すと、人気のない中庭へと向かった。
(これからどうなるのかな、俺・・)
先程の、自分を見つめる貴族達の冷たい視線を思い出した海斗は、この先王宮で暮らしていけるのかと心配になった。
「カイト様、こちらにいらっしゃったのですね。」
「あなたは・・」
「皇太子様が・・兄上があなたをお待ちしております。」
ビセンテ王子はそう言うと、海斗の腕を掴んで大広間へと向かった。
「カイト様、さぁ・・」
「先程取り乱してしまって申し訳ありませんでした、皇太子様、皇太后様。」
もう、逃げられない。
ならば、堂々と立ち向かわなければ。
「美しい赤毛だね、生まれつきかえ?」
「はい。」
「ほぉ、鮮やかな緋色じゃ。腕の良い洗髪師でも、美しい色にはこのようには染められぬ。」
「そうですか?」
「ジェフリーから、そなたの事を聞いたぞ。見合いの時にコルセットがきつくてカテーシーが出来ぬと言ったそうだな?それは、本当か?」
「はい。先程逃げ出したのは、俺なんかが皇太子妃に相応しくないと思ったからです。」
「その理由は?」
「俺が、ロレンシア家の恥さらしだからです。」
海斗がそう言った瞬間、周囲がざわめいた。
「面白い事を言う。そなたのようにはっきりと物を言う娘は、社交界には相応しくないが、それを言うのならば妾もジェフリーも同じ事。そなたなら、これから上手くやれるだろうのう。」
「え・・」
「これから、宜しく頼むぞ。」
「はい・・」
舞踏会から数日後、ロレンシア公爵邸の前に一台の馬車が停まった。
「カイト様、皇太后様の命により、お迎えに上がりました。」
「お義父様、お義母様、今まで育てて下さりありがとうございました。」
義理の両親―養父母に別れを告げた海斗が馬車に乗り込もうとした時、黒髪の巻き毛を揺らしながら、一人の少女が海斗の元へとやって来た。
「ヘンリエッタ、どうしたの?」
「カイトお姉様、もう会えないの?」
「そんな事ないよ。」
海斗は自分に懐いている末妹・ヘンリエッタの頭を撫でた。
こうして、海斗は長年暮らしていた実家を離れ、王宮で暮らす事になった。
「あの、皇太子様は・・」
「皇太子様は、外出されております。わたしは今日からあなた様の教育係を務めさせて頂きます、ビセンテ=デ=サンティリャーナと申します。」
「よろしく、お願い致します・・」
ビセンテは、海斗を未来の皇后に育てるべく、海斗が王宮へやって来たその日から、厳しいお妃教育をした。

(はぁ、疲れた・・俺、こんな所で暮らせんの?)

海斗は寝台に大の字になって寝転がると、そのまま朝まで泥のように眠った。

「カイト様、おはようございます。」
「おはようございます。」
海斗が寝台の中で寝返りを打っていると、寝室に女官達を連れたビセンテが入って来た。
「え、今何時?」
「朝の5時です。」
「もう少し、寝かせて・・」
シーツの中へと海斗が潜ろうとした時、ビセンテがそれを勢いよく剥がした。
「何すんだよ!」
「“何をなさるの”です。未来の皇后ともなろう御方が、そのような粗野な物言いは今後お控え下さい。」
「わかったよ。」
「“わかりました”。」
「わ・か・り・ま・し・た!」
「よろしい、では顔を洗って、歯を磨いて下さい。」
(あ~、いつまでこんなの続くんだろう?)
洗顔と歯磨きを終えた後、海斗はビセンテと朝食を取る事になった。
 しかし、そこでもビセンテに事あるごとに監視された。
「脇を閉めて!スープは音を出して啜らない!」
四六時中、ビセンテに一挙手一投足を監視され、息が詰まりそうだった。
海斗が王宮の中で唯一出来る気晴らしは、刺繍と乗馬、そして絵を描く事だった。
 数少ない私物の中に、画材道具を持って来て良かった―海斗はそう思いながら、白いカンバスの上に王宮を描き始めた。
王宮にやって来た時、この美しい白亜の宮殿を自分の手で描きたいと思っていたので、すぐに描けて良かった。
「これで良し、と・・」
海斗が王宮の絵を描き上げた時、ビセンテが部屋に入って来た。
 彼は、緑の瞳を大きく見開いたかと思うと、海斗の絵を見て溜息を吐いた。
「これは、あなたがお描きになられたものですか?」
「はい・・」
「素晴らしい。」
「あの、怒らないのですか?」
「いいえ。ミューズの恩寵を受けておられるあなた様を、どうして怒る事が出来ましょう?」
案外、融通が利く男だ―海斗がそう思い掛けていた時、ビセンテの顔が少し険しくなった。
「何ですか、寝癖を放置したままにするなど・・」
前言撤回、やはり彼とは気が合わない―海斗は完成した絵をイーゼルから外した後、鋏を持って浴室へと向かった。
「カイトはどうした?」
「存じません。」
「お前が苛めるから、部屋に引き籠もったんじゃないか?」
「苛めるなど、人聞きの悪い事を!わたしは・・」
「ビセンテ、そなたは少しやり過ぎる所がある。」
「少し、カイトの様子を見に行って構いませんか、お祖母様?」
「許す。」
「では、失礼して・・」
ジェフリーが椅子から立ち上がろうとした時、女官達の悲鳴が廊下から聞こえて来た。
「何があった?」
「カイト様が・・」
ジェフリーが海斗の部屋のドアをノックすると、部屋の主からは何の返事も無かった。
廊下で待っていても埒が明かないので、ジェフリーは部屋のドアを蹴破った。
「皇太子様・・」
そう言って自分を見つめた海斗の髪は、腰下までの長さがあったものが、首の後ろに届くか届かないかの長さになっていた。
「成程、そういう事か・・」
この時代、女性―上流階級の女性達は、腰下から膝下までの長髪を美しく保ち、その髪を美しく飾る事が常識であった。
女官達が悲鳴を上げたのは、女の命である髪を切った海斗の行為が信じられなかったのだろう。
「何故、髪を切った?」
「手入れしやすい為です。毎日、顔が突っ張る位きつく髪を結ばれるのは堪りませんからね。」
「そうか・・」
「どうですか?おかしくありませんか?」
「いや、俺は人の価値を外見ではなく、その人柄で見る主義でね。」
「そうですか・・」
(面白い娘だ。)
知れば知る程、惹かれる。
「何たる事・・」
ジェフリーと共にダイニングに入った海斗の髪を見たビセンテは、飲んでいたワインで噎せそうになってしまった。
「その髪はどうしたのかえ?」
「自分で切りました。」
「何と、大胆な事をしたものじゃ。女の命である髪を自ら切るとは。」
「わたくしの身体はわたくしのもの、誰の指図も受けませんわ。」
「ますますそなたが気に入ったぞ、カイト。切った髪はどうした?」
「箱に入れております。」
「妾の鬘用に使わせて貰おう。そなたの美しい赤毛は、この世に置いて唯一無二のものだからな。」
「有難き幸せにございます。」
海斗が女の命である髪を切ったという話は、瞬く間に社交界中に広がった。
「何という事をしたのよ、あの子は!うちの家名に泥を塗るつもりなのかしら?」
「でも、カイトお姉様らしいですわ。」
ヘンリエッタ、部屋へ行きなさい。」
「はぁい。」
ヘンリエッタがダイニングルームから出て行く姿を確めると、マリーは夫を見て彼にこう尋ねた。
「あなた、アナスタシアの事はどうなさるおつもり?あの子はあれから自分の部屋に引き籠もったまま出て来ないのですよ!」
「今は、時間が必要だ。」
「何を悠長な事をおっしゃっているの!このままあの子が結婚出来なくなったら、あなたの所為ですからね!」
マリーのヒステリックな金切り声を聞きながら、アナスタシアは自室をこっそりと抜け出し、厩舎で愛馬に話し掛けていた。
「わたしも、お前のように自由に生きられたらいいのに。」
愛馬のジュリアス―栗毛の馬は、主の言葉を聞きそれに賛同するかのように鳴いた。
アナスタシアはジュリアスに乗ると、屋敷の裏口から外に出て、近くにある公園へと向かった。
外は凍てつくような寒さだったが、部屋に引き籠もっていたアナスタシアにとっては、冷たい空気は心地良いものだった。
公演まであと少しという所で、彼女は一人の男とぶつかりそうになった。
「済まない、お怪我はありませんか?」
「はい・・」
「良かった。」
そう言って自分を見つめる青年の瞳は、美しく磨き上げられたエメラルドを思わせるかのような、鮮やかな緑をしていた。
「わたしの顔に何か?」
「美しい瞳をしていらっしゃるなと・・」
「それは、貴女も同じですよ。星空を全て宿したかのような蒼い瞳だ。わたしはビセンテと申します、あなたは・・」
「前に一度、お会いしておりますわ。」
ビセンテとアナスタシアは、暫く馬上での会話を楽しんだ後、それぞれの家へと帰っていった。
「アナスタシア、何処へ行っていたの?」
「遠乗りに行っていましたわ。」
「そう、気晴らしをする事は良い事よ。」
マリーはそう言うと、アナスタシアに一通の招待状を手渡した。
「これは?」
「皇太子様とカイトの結婚式よ。欠席するのなら・・」
「いいえ、出席するわ。あの子の幸せを、近くで見たいの。それに、あの方と会えるし。」
「あの方?」
「いいえ、何でもないわ。」
ジェフリーとの婚礼を控え、海斗は忙しくなった。
衣装選び、招待客リストの作成、やる事が山程あって、海斗は気が狂いそうだった。
そんな中、海斗に一人の青年が訪ねて来た。
「久し振りだね、海斗。」
「和哉・・」
彼は、海斗の孤児院仲間・森崎和哉だった。
「どうして・・」
「ここに来たかって?君の実家を訪ねたら、君がここに居るって聞いたんだ。これ、結婚祝い。」
「ありがとう。」
海斗が和哉から受け取った物は、小さなダイヤモンドのペンダントだった。
「カイト様~!」
「ごめん、もう行くね。」
「会えて嬉しかったよ。」

そう言った和哉の瞳に暗い光が宿っている事に、海斗は気づいていなかった。

海斗とジェフリーの婚礼の日は、雲一つない晴天だった。

「まぁ、今日は素敵な日になりそうね。」
「ええ。」
新婦の姉であるアナスタシアは、ペールブルーのドレスを着ていた。
彼女は、皇太子妃となる妹の花嫁付添人を務める事になっていた。
「昨夜は良く眠れたの、カイト?」
「うん・・」
「皇太子様と、お幸せにね。」
花嫁の控室で、アナスタシアはそう言って海斗に微笑んだ後、彼女と抱き合った。
「カイト様、そろそろお時間です。」
「わかりました。」
ウェディングドレスの裾を女官達に持って貰いながら、海斗はジェフリーと共に馬車へと乗り込んだ。
「良く似合っているぞ。」
「ありがとう。」
ジェフリーと共に馬車から降りた二人は、大聖堂の前で沿道に並んでいた人々から祝福の喝采を受けた。
二人の婚礼は、伝統に則って恙なく終わった。
大聖堂から王宮へと戻る二人のパレードを、ビセンテは騎乗して警護した。
「今日は、騒がしいわね。」
「ええ、今日は皇太子様のご婚礼の日ですから。」
「そう・・」
遠くから聞こえて来るパレードの喧騒に耳を澄ませながら、喪服姿の貴婦人は溜息を吐いていた。
(寡婦でなければ、今頃王宮の舞踏会に参加できたでしょうに。)
彼女の名は、ラウル=デ=トレド。
一月前に、夫が戦死し、寡婦となった。
今彼女が考えている事は、これからどう生活するかではなく、今夜の舞踏会の招待状が、何故自分宛に届いていないのかという事だった。
(夫が居ないと、わたしは宮廷に出入りできない。)
宮廷に出入りできなければ、流行のファッションやグルメ、美容の情報が得られなくなる。
それは、宮廷に生きるラウルにとっては耐え難いものだった。
(何としてでも、宮廷に・・)
「奥様、失礼致します、お客様が・・」
「お通しして。」
「失礼致します、ラウル様。」
部屋に入って来たのは、宮廷の儀礼官であるハットン卿だった。
「まぁハットン様、忙しいのにいらっしゃるなんて・・」
「ラウル様、この招待状をあなた様の元に届けるのを忘れてしまいました、申し訳ございません。」
「あら、わたくし寡婦になったので招待状が来ないのかと、不安になっていましたのよ。」
「では、わたくしはこれで失礼致します。」
「わざわざ招待状を届けて下さって、ありがとう。」
その日の夜、王宮では皇太后主催の舞踏会が開かれていた。
その主役は、婚礼を終えたばかりのジェフリーと海斗だった。
獅子と不死鳥の刺繍を金糸で施された真紅のドレス姿の海斗は、一際美しかった。
ドレスと同じ色の髪には、ペリドットとダイヤモンドのティアラが飾られていた。
そのティアラは、皇太后・エリザベスが結婚式の際につけていた物を、海斗が譲り受けたのだった。
「良く似合っておるぞ、カイト。」
「ありがとうございます。」
「カイト、結婚おめでとう。」
「ありがとう、姉様。」
「皇太子様、妹の事を宜しくお願い致しますね。」
そう言ったアナスタシアの顔は、何処か幸せそうだった。
「アナスタシア様、またお会いしましたね。」
「ビセンテ様・・」
「一緒に踊って頂けませんか?」
「はい、喜んで。」
―まぁ、ビセンテ様だわ・・
―お似合いの二人ではなくて?
遠巻きにビセンテとアナスタシアのダンスを見ていた貴婦人達が、そんな事を扇子の陰で囁き合っていた時、一人の喪服姿の貴婦人が大広間に入って来た。
「まぁ、あの方は・・」
「彼女を、ご存知なのですか?」
「あの方は、ラウル=デ=トレド様、パルマ公のご親戚筋に当たられる御方よ。」
「確か、一月前に夫が戦死されて、寡婦となられたのではなくて?」
女官達がそんな話をしていると、喪服姿の貴婦人はエリザベス皇太后に挨拶をしていた。
「ラウルよ、よう来てくれた。」
「皇太后様、わざわざわたくしを招待して下さってありがとうございます。」
ラウルは恭しい様子でエリザベスの手の甲に接吻すると、海斗を見た。
(何?)
暫く全身を舐め回されるかのような、執拗な視線を彼女から浴びた海斗は、恐怖の余り、ジェフリーの背後に隠れた。
「ラウル様、余り妻を怖がらせないで下さい。」
「あら、ごめんなさい。とても珍しい赤毛だったので、つい見惚れてしまいましたの。」
ラウルはそう言った後も尚、じっと海斗を見つめて来る。
淡い褐色の瞳が、シャンデリアの光を受け、美しくも禍々しい黄金色に輝いた。
「素敵なティアラですわね。」
「ありがとうございます。」
「あぁ、このような華やかな場で黒玉(ジェット)しか身に着けてはならぬというなんて、寡婦という身分がこれ程までに恨めしいと思った事はありませんわ。」
そう言って溜息を吐いたラウルは、再び海斗を見た。
「皇太子妃様、そろそろ・・」
「皇太后様、わたくしはこれで失礼致します。」
「そうか。今日は色々と忙しかったから、部屋に戻ってゆっくり休むといい。」
「はい。」
女官達を従えて、海斗が大広間から出て行く姿を、周囲の貴族達は感嘆の溜息を吐きながら見送った。
「疲れた・・」
金糸で刺繍されたドレスを脱ぎ、女官達によってコルセットを緩めて貰った海斗は、夜着に着替えもせず、下着姿のまま寝台の中に入った。
「まぁ皇太子妃様・・」
「だって、朝から疲れてもうクタクタなんだもの。ねぇアメリア、ラウル様の事は知っているの?」
「あの方の事は、色々と存じ上げておりますわ。」
そう言ったアメリアの顔が、微かに曇った事に海斗は気づいた。
「あの方は、色々と黒い噂がある方ですの。」
「黒い噂?」
「ええ、密貿易に関わっていらっしゃるとか・・」
「俺、あの人に見られていたような気がするんだけれど・・」
「あの方は、ご自分の獲物を見極めていらっしゃったのですわ。」
「どういう意味?」
「わたくしが皇太子妃様にお伝え出来るのは、ラウル様は、悪魔の化身のような方ですわ。」
「そう・・」
「明日も、色々と忙しくなりますから、ゆっくりお休みになってください。」
「わかった、お休み。」
天蓋が閉められ、海斗は朝まで夢も見ずに眠った。
同じ頃、皇太子の結婚に沸く王都から離れた北東部の町・リエルでは、ある事件が起きていた。
「ひぃ・・」
「頼む、命だけは・・」
「もう、遅い。」
まるで中世の頃から抜け出してきたかのような、奇妙なマスクをつけた男は、そう言うと命乞いをする者達の額を躊躇いなく撃った。
「そっちは、片付いたか?」
「あぁ。」
「誰にも顔を見られていないか?」
「あぁ。」
「そうか。」
賊達は、夜明け前に血塗られた貴族の屋敷を後にした。
「次は、誰を殺す?」
「さぁな。」
「赤毛の皇太子妃だ。」
激しく揺れる馬車の中で、一人の男はそう呟くと、皇太子の結婚を報じる新聞記事を広げた。
そこには、美しいペリドットとダイヤモンドのティアラを髪に飾った海斗の写真があった。
「これから何処へ行くつもりだ?」
「決まっている―王都だ。」

男達を乗せた馬車は、王都へと向かっていた。


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